カフカの日記|2017.04.07|アーリントン・オンザケッグにて
私)済まないが、そろそろ会計にして欲しい
店主)English please. Here is Texas|英語で頼む、ここはテキサスだ
ここ数日のステーキ中心の食生活と、3杯目のバーボンのオン・ザ・ロックで酔いが回ってきたこともあり、自分が今、日本から1万キロ離れたテキサスにいることを瞬間的に忘れていた。14時間の時差たちも私の思考を全力で邪魔しているに違いない。やれやれ、またロクでもないタクシーを呼ばなければいけないのか…金曜日の穏やかな夜に、気の利いたバーで知り合ったエマ・ワトソン似の女の子と飲んでいるにも関わらず、本日23回目のため息をつくのは、私がテキサスのタクシー・ドライバーに対してある種の失望と諦めを感じているからだ。
正直に告白すると、私はがっかりしているのだと思う。しかし思い返せば私の人生において、タクシー・ドライバーとの関係は、満ち足りて友好的なものであった。彼らの多くは私に対して好意を抱いていたようだし、(私の感じ方さえ間違っていなければ)少なくない割合である種の “敬意” さえ感じることができた。彼らが口にする “Have a good day” には、文字通り祝福の念があり、彼らの微笑みにはチップを要求しない純粋な好意があった。私の下らないジョークにも、まるでハリウッド・スターがスピーチの掴みに絶妙なそれを放ったときのように、腹を抱えて笑ってくれた。
しかしフォートワースに着いてから僅か4日目にして、長年彼らと築き上げてきたそれは資産から負債へと項目を移した。皆、申し合わせたかのように到着時刻にはきっちり30分遅れ、料金は正規のダブル(時にはトリプル)を要求し、おまけに渾身のユーモアまで黙殺された。僅か5マイルの距離で、100ドルを澄ました顔で請求されたときには、”穏やかさが服を着て歩いている” と一部で言われている私でも手持ちのカフェ・アメリカーノを頭から浴びせようか真剣に悩んだくらいだ。
確かに、「君は短気で偏狭だ」と言われればその通りかもしれないが、私にも腹を立てる権利くらいあるはずだ。「もしもテキサスのドライバーに腹を立てない人間がいるとすれば、その身体に流れているのは、血液ではなくトマト・ジュースに違いない。」私は試しに、その仮説をエマ・ワトソンに打ち明けてみた。
「あなたの言い分はわかるけど、ベストを尽くしていないわ。私なら事前に話を付けておくし、そもそもUBERを使うべきよ。」彼女の言う通りだった。「原因を内側に向けない限り発展はない。インサイド・アウトだ。」哲学的なバーテンダーもエマに2票目を入れた。私は降参して3票目を投票箱に入れた。なぜならば確かなことなど何ひとつないこの世界において、インサイド・アウトだけは、私が心から確信している知的財産の一つだったからだ。
インサイド・アウト
物事の原因を “外側” ではなく、常に “内側” に求めること
バーボンのお代わりを待っている間、エマは席を外し私はふと、日本の “ある宿” での出来事を想い出していた。その日、私は魔術師との会食のため、森のオーベルジュに向かっていた。ただし、ひと口に “森” といっても、熊のプーが住んでいるような牧歌的なものではなく、「むかしむかしあるところに」という感じの怪しげな森だった。車を止めると、美男美女のコンシェルジュが、楽しげな笑みを浮かべて迎えてくれた。その笑顔は、ついさっき、愉快な冗談を耳にしたばかりという様子だった。もちろん、下品な冗談ではない。一昔前の外務大臣が、園遊会で皇太子に向かって口にして、周りの人々が小さな声でくすくす笑うような洗練された冗談だ。その宿では、おもてなし、三味一体、一期一会、といった日本人の美学が、まるで、1982年のシャトー・ムートン・ロートシルトのように、上品に凝縮されたまま、惜しみなく我々に注がれた。
ダイニングで顔を合わせた魔術師は、多忙を極めているように見えた。愚かな私は、一流のサービスを受けたことで、気を大きくし、「あなたほどの方が、なぜ仕事を減らして自由に過ごさないのか?」と、尋ねた。魔術師は私の質問に対し、ほんの少し考える素振りを見せてから、天使の海老とシャブリを味わいながら、そっと教えてくれた。
自由という言葉は誤解されがちな言葉です。本来の意味はその文字通り、自らに由縁を置くこと。あらゆる現象と自分との間に、繋がりを見出す在り方が、自由な生き方というもので、決して好き勝手に振舞うことではありません。私はその意味において、常に自由ライフスタイルを追求しています。全ては私が選んだ結果であり、「雨が降っても、自分のせい」だと感じられます。
魔術師の会話とエマの指摘によって、私は自分がいかに偏狭でつまらない不自由人になっているのかを思い知らされた。私のため息は、バーボンのせいでも無ければ、タクシー・ドライバーのせいでもない。そもそも、「〇〇のせい」という言葉は、自由を目指す者の辞書に存在してはならない。全ての結果は、私の選択の結果であり、私が望んだものなのだ。冷静になれば、ここはゴビ砂漠でもなければ、キリマンジャロでもなく、穏やかなアメリカの田舎町なのだ。砂嵐の心配もなければ、凍傷に悩まされることも無い。物事のいい面だけを観れば、冷えたバドワイザーと、ジューシーなハンバーガーを食べて、平和にこともなく幸せに過ごせるのだ。
それだけでも感謝しなければいけない。ましてや自由なエマ・ワトソンとバーボンを飲みながらだ。
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