平凡なものを緻密に見れば、非凡なものが見えてくる
東山魁夷|文化勲章受賞・日本画の巨匠
カフカの日記|2019.01.01|福岡ウィズ・ザ・スタイルにて
サンタクロースを期待する子どもたちが、冬になるとどこか落ち着かないように、私は元旦のこの日を1ヶ月前から心待ちにしていた。なぜなら贔屓にしている割烹の主人から、御節料理の案内が届いたからだ。私が一枚板のカウンターを挟んだビストロや割烹を愛する理由は、目の前のライブ演出により、五感を使って作品を味わえることであり、“熱いものは熱いうちに” という、新鮮さに優位性があると感じているからだ。師に紹介していただいて以来、主人の料理に魅了され、片道2時間のフライトを要するにも関わらず、定点観測的に繁く通うようになった。
しかし今回の期待には、「いくら主人でも…」という一抹の不安を伴っていた。つまり、いかに信頼を寄せる主人であっても、”世界一リッチな生ハムメロン” の味がある程度想定できように、御節料理のように時間が経つことが前提となった ”冷たい料理” で、果たして、この祝いの席の間が持つのか?という問いかけには、いささか懐疑的であった。そして、”2019年の布” と書かれた美しい本麻のヴェールを外し、御重を開けた刹那、その悪い予感が現実のものになってしまったのか。と息を飲んだ。
なぜなら私の頭にあった ”御節の在るべき姿” は、豪華な伊勢海老と祝い鯛、そして金箔と水引だったのだが、このお重には華やかな伊勢海老は愚か、鮮やかな栗きんとんの姿も見当たらなかったからだ。私は取り急ぎ、主人が解説してくれるのを待つことにした。しかし暫くして、ここが主人の店ではないことに気付き、自分で考える方向に切り替えた。
予測とのギャップに頭を打たれ、しばらくは途方に暮れていたのだが、雪道の長いトンネルを抜けたあとのように、徐々に目が慣れてくるに連れて、そこにある ”調和の取れた美” と、確かな ”侘び寂び” を感じ始めていた。そして最も慎ましい佇まいの ”黒豆” を口にした瞬間。全ての景色が変わった。
私は雷に打たれ、自分の傲慢さに対する深い反省と共にこう呟いた。「あぁそうだ…これが主人の料理だ。」その黒豆は、私の知っている過去のどんな黒豆よりも「ふっくら」しており、舌の上の滑らかさからは、丁寧にこしらえたメレンゲを思わせた。また、”その他大勢のそれ” に見られるシロップ香は姿形も無く、生蜂蜜のニュアンスを含んだ素朴な甘さが鼻に抜けて心地よい。それは、「しかし」も、「けれど」も、「仮に」も、「あるいは」も帯びず、一切の有無を言わさない ”正しい黒豆の姿” であった。
そのような感動の中、ひとつ、またひとつと箸を進めていくと、主人の料理に一貫して見られる食材の卓越性を引き出す姿勢が確かにそこにあった。田作りは鰯の頭の苦味をしっかり残し、ナッツと醤油で香ばしく仕上げる。たたきごぼうは、ごぼう特有の個である ”強い歯ごたえと土の香り” を前面に出しつつ、上品なお酢で角だけを抑えている。だから貴方は美しい…この価値観こそ、和食特有の在り方なのではないか。
他国の料理の多くは、調味料とオイルで ”味” を造り、料理に絡める。味を食材にどう絡めるか?こそが、料理人が求める道なのではないかと思わせる。だからテーブルには、”ほぼ間違いなく美味いもの” がサービスされる。一方で、御節を作る主人の料理には、食材と会話しながら ”個” を見つけ、いかにして個を活かすか?という在り方をヒシヒシと感じるのだ。余計なものは加えず、個が輝いている範囲で、上手く角だけを消そう。と。決して派手ではないが、奇をてらった旨さではなく ”正しさ” がそこにある。私が和食とフレンチを愛するのは、この在り方なのだ。
また、他の食文化と比較して、和食では圧倒的にメイン・ディッシュの姿を感じない。西洋のコース料理には、基本的にメイン・ディッシュがあり、そこに至るストーリーを楽しむ文化を感じる。”メインとサブ” という感覚があるからこそ、フレンチ・シェフには階級があり、ガルド・マンジェ(冷菜担当)よりも、ポワソニエ(魚料理担当)の方が格上だと思われているし、給料も高い。一方の和食は、根底に食材に貴賎なしの価値観があり、食材の優劣ではなく “個” を重んじる文化があるようだ。これは、キリスト、アッラー、ヤハウェという唯一神を信仰する文化と、あるいは万物に神が宿る八百万(やおよろず)の精神の違いも起因しているのだろう。
黒豆には彼特有の優しさがあり、竹の子には彼女だけが持つ魅力があります。この在り方こそが、私たちJapaneseの美しさであり、良さではないかと思うのです。この御節には、明らかに主人のそのような意図と想いを感じる。鹿や猪、鮎といったジビエと共に生きてきた美しき日本人が、適度に整備された牛舎で、最適化された餌を与え、きっちり3年で出荷するまるでドローンが作ったような和牛のサシを拝むようになったのは、いつからだろうか。画一化するのは、非常に勿体無いことではないか…
勿体無い|MOTTAINAI
勿体(物の本来あるべき姿)が無くなり、嘆く気持ちを表す日本語の単語。
主人の御節を通じて、私は日本人の勿体(在るべき姿)を考えるキッカケをいただいた。同時に年始に挨拶に行くために、また片道2時間のフライトを手配した。
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